オードリーヘップバーンの死因は?晩年と生い立ちが壮絶?

オードリーヘップバーンの画像 エンタメ

☆この記事はこのような人におすすめです。

・英ハリウッド女優・オードリーヘップバーンの死因を知りたい。

・オードリーヘップバーンの生い立ちや晩年を知りたい。

・夫や子供について知りたい。

・幼少期のスパイ疑惑の真相を知りたい。

 

オードリーヘップバーンは、イギリス人の元ハリウッド女優です。

 

女優としては、映画『ローマの休日』で人気を博し、1989年に引退。

 

晩年は、国際連合児童基金ユニセフの親善大使に就任し、恵まれない子供たちへの支援活動に取り組んでいました。

 

ところが、ユニセフの親善活動も3年目に差し掛かった時、オードリーヘップバーンに癌が発覚したのです。

 

しかも、癌は全身の部位に転移していて、すでに手の施しようがない状態。

 

結局、オードリーヘップバーンは1993年1月20日、スイスのトロシュナの自宅で息を引き取ったのでした。享年63歳。

 

ちなみにオードリーヘップバーンの死因は「腹膜偽粘液腫(ふくまくぎねんえきしゅ)」。

 

この「腹膜偽粘液腫」という病気は、「100万人に1人か2人の割合でしか発生しない」と言われています。

 

また、症状は腹腔内で増殖し、大量の粘液を産生しながら他臓器に癒着・圧排。

 

原因はまだわかっていない大変まれな疾患で、現在でも治療が難しい病気なのです。

 

そこで今回は、オードリーヘップバーンの死因や晩年の活動。

 

幼少期からの生い立ちや「ナチス占領下のオランダでスパイをさせられていた」という噂についてまとめてみました。

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オードリーヘップバーン死因と晩年の活動

女優を1989年に引退したオードリーヘップバーンは、恵まれない子供たちへの支援活動に取り組んでいました。

 

晩年は、ユニセフの親善大使に就任し、内戦の続くソマリアやスーダンなどの子供たちに笑顔を届けていたのです。

 

また、当時のオードリーヘップバーンは、このように語っていました。

「わたしは、ユニセフが子供にとってどんな存在なのか、はっきり証言できます。なぜって、私自身が第二次世界大戦の直後に、食べ物や医療の援助を受けた子供の一人だったのですから」。

 

(晩年のオードリーヘップバーン)
オードリーヘップバーンの晩年の画像

 

晩年のオードリーヘップバーンは、戦争や貧困の深刻な地域を訪問。

 

その際、飢えや病気に苦しむ多くの子供たちの現状に接し、励ましたりしていました。

 

さらに、食料や薬品などの支援やその広報活動に励み、各地の悲惨な状況を世界の人々に訴えていたのです。

 

そんなオードリーヘップバーンでしたが、1992年9月のソマリア視察中、異変が起き始めます。

 

スイスの自宅へ戻った直後、腹痛を訴え、10月には精密検査を受けることになったのです。

 

そして、検査結果はというと、悪性腫瘍が虫垂や小腸へ転移していることが判明。

 

病名は「腹膜偽粘液腫」だったのです。

 

その後、オードリーヘップバーンは、すぐに手術を受けたようですが、腸閉塞を発症。

 

再手術を試みるも、すでに悪性腫瘍が全身の部位に転移し、手の施しようがなかったそうです。

 

「末期癌の末に余命もわずか」そう悟ったオードリーヘップバーンは、その後、完治しないままスイスの実家に戻ることを決意。

 

そして、1993年1月20日の夕刻、ついに息を引き取ったのでした。

 

なお、死因は「腹膜偽粘液腫」とされていますが、他にも「虫垂癌」、「大腸癌」など、様々な説が唱えられています。

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オードリーヘップバーンの生い立ちとスパイ疑惑

オードリーヘップバーンの生い立ちについてですが、ヘップバーンは1929年、ベルギーのブリュッセルで生まれました。

 

父親はアイルランド系のイギリス人で、ナチス黒シャツ党の幹部。

 

母親はオランダの男爵家の出身だそうです。

 

そんなオードリーヘップバーンは、5歳からイギリスで暮らし、9歳の時に両親が離婚。

 

その後、オランダのアルンヘムへ移住したとされています。

 

ただ、そのころのオランダといえば、第二次世界大戦が勃発。

 

翌1940年には、ナチスがオランダに侵攻しています。

 

結果、オランダにいたユダヤ人のほとんどがナチスの被害に遭ってしまったのです。

 

なお、このナチスのフランス侵攻は、第二次世界大戦中、ドイツ軍をはじめとする枢軸国軍と連合国軍とのベネルクス三国・フランス北部での戦闘でした。

 

また、オランダのアルンヘムもナチスへの抵抗運動が激しかったといいます。

 

そんなこともあって、当時11歳のオードリーヘップバーンもスパイに手紙を渡したりして、抵抗運動に協力していたそうです。

 

ところが、反ナチス運動の連絡係をしていたことがバレて捕まり、異父兄弟も強制収容所送りに。

 

捕まったオードリーヘップバーンはというと、食事をろくに与えてもらえずに栄養失調に襲われたのでした。

 

このような壮絶な幼少時代の生い立ちが、オードリーヘップバーンのスパイ疑惑として語られているのです。

オードリーヘップバーンの夫と子供

反ナチス運動後のオードリーヘップバーンは、女優となり、1953年に『ローマの休日』でアカデミー主演女優賞を獲得。

 

以降も『ティファニーで朝食を』(1961年)、『マイ・フェア・レディ』(1964年)などの人気作に出演。

 

数々の賞を受賞し、トップの座に上り詰めたのです。

 

しかし、1960年代後半から1970年代にかけて、主演作のオファーを断り続けました。

 

そして、25歳だったオードリーヘップバーンは、1954年に夫のメル・ファラーと結婚。

 

1960年には、待望の息子・ショーンが誕生したのです。

 

オードリーヘップバーンと夫のメル・ファラーの画像

 

その後はというと、66年、67年と続けて子供を流産したこともあり、結婚生活を維持できなくなったといいます。

 

夫婦は同年秋に別居した後、68年11月、正式に離婚。

 

ところが、オードリーヘップバーンは、翌年1月18日に再婚します。

 

再婚相手は、離婚する前に知り合った精神科医のアンドレア・ドッティという人物。

 

そして、2人はスイスのモルジュ村の教会で結婚式を挙げたのでした。

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