☆この記事はこのような人におすすめです。
・福田和子の息子について知りたい。
・福田和子が潜伏していた和菓子屋を知りたい。
・被害者の名前を知りたい。
福田和子は全国に指名手配されてから15年もの間、逃亡生活を続けた人物です。
そして、時効成立まであと21日に迫ったところで逮捕され、2005年3月10日、脳梗塞で死去しています。
なお、福田和子が死亡したことは当初、遺族ら関係者を除き、地元の愛媛新聞が報じるまで非公表でした。
火葬後、遺骨は四国に住む息子が引き取ったということです。
その息子は現在、結婚して家庭を持ち、父親が経営していた鉄工所の後を継いでひっそりと生活しているのだとか。
また、福田和子が身を潜めていた和菓子屋には「元プロ野球選手の松井秀喜が通っていた」と言われています。
そんな福田和子は1982年8月、愛媛県松山市内のマンションで同僚のホステスの命を奪ったしたとして、愛媛県警から殺人容疑で指名手配されていました。
被害者となった同僚のホステスの名前は安岡厚子さん(当時31歳)。
犯行後、福田和子は15年間、逃亡生活を続けていましたが、時効成立する21日前の1997年7月29日、福井市内のおでん屋からの通報で逮捕されたのです。
福田和子の息子は鉄工所社長?
福田和子は、全国に指名手配されてから15年間、逃亡生活を続け、時効成立まであと21日に迫ったところで逮捕されました。
逃亡当初は行く宛てもなく、ただ列車に乗り込み、最終的に行き着いた先は石川県金沢市。
石川県にたどり着いた福田和子は、やがて県内にある和菓子屋の店主と親しくなり、一緒に住むことになります。
ところが、和菓子屋の店主には既婚者で嫁がいたのです。
それでも店主は、福田和子と一緒に住みたいがために嫁と離婚。
そして、2人の生活が始まると、福田和子は自分の息子を和菓子屋に呼び出して生活を共にしたのです。
もともと福田和子は4人の子供がおり、和菓子屋に呼び出したのは長男でした。
その息子も現在結婚して、子供もいるそうですが、ほかの子供も結婚してどこかで住んでいるということです。
また、和菓子屋に呼び出した息子に関しては、現在、愛媛で鉄工所の社長をやってるのだとか。
という情報を元に、息子が営む鉄工所に関してネットで検索すると「水野鉄工所」の名前が出てくるのですが、真相は明らかになっていません。
ただ、息子は「自分にとっては日本一の母親だった」と語り、福田和子の子供だという事をまわりに全て明かしているといいます。
しかも息子は、婚約中だった嫁を逃亡中の福田和子に会わすという行動にも出ていたのです。
福田和子が息子と暮らした和菓子屋は松栄堂
福田和子の事件は世間が注目しただけに、これまで幾度となくドラマ化されています。
中でもターニングポイントとなったのはやはり、福田和子が4年間潜伏していた石川県能美郡(現能美市)にある和菓子屋。
それと最後に潜伏していた福井県のいきつけのおでん屋「さかえ」の女将に通報される一幕でしょう。
福田和子は犯行後、15年もの逃亡生活し、潜伏先で「小野寺忍」の偽名を使いスナックのホステスとして働き、整形手術を受けて顔までも変えていました。
後に店の常連客として石川県根上町(現能美市)の和菓子屋(松村松栄堂)の店主と親しくなった福田和子は、生活に困っていたため、店主と一緒に住むのです。
和菓子屋の店主も一緒に住むため、離婚までして、2年8ヶ月の間、福田和子に店を手伝わせるなどしていました。
そして、この和菓子屋には元プロ野球選手の松井秀喜が小学生だったころ買いにきていたこともあり、福田和子が逮捕されたときのインタビューで「きれいで愛想のいい奥さんだった」と語っています。
福田和子が潜伏していた和菓子屋の名前は「松村松栄堂」だという噂ですが、現在も営業しているようです。
福田和子の被害者の名前
福田和子は1982年8月19日、愛媛県松山市勝山町1丁のマンションで元同僚ホステス(当時31歳)の命を奪い、逃走。
逃走後、偽名を使いながら石川、青森などに潜伏して男を次々手玉に取っていったのです。
そんな福田和子に付いた異名は「魔性の女」、「7つの顔を持つ女」。
その福田和子にあやめられたのが、元同僚ホステスの安岡厚子さんです。
被害者の安岡厚子さんは店の人気NO1ホステス。
当時借金があった福田和子は金を持っている安岡厚子さんに目を付け、金を無心するのですが、断られたため命を奪ったのです。(福田和子は当時34歳)
そして犯行後、福田和子は証拠を隠すため安岡厚子さんを郊外の山林に埋めます。
その後、行方が分からなくなった安岡厚子さんの家族が警察に届けたことから、福田和子は危険を感じ、逃亡生活に入ったのでした。
結局、最後は福井市内のおでん屋に出入りしている女性客が「手配中の福田和子に似ている人がいる」と警察に通報し、同日夕、店から出てきたところで任意同行。
事情聴取に対し、福田和子は当初「ナカムラユキコ」と名乗り、指紋採取を拒否。
容疑を否認していましたが、手配指紋が一致し、容疑事実を認めたため、同6時40分逮捕されたのです。
そして、2003年11月、最高裁で無期懲役が確定し、2005年3月10日、脳梗塞で死去したのでした。